フィンランドの学校に行こう!

フィンランドの教育を通して日本の教育を見つめ直す。

フィンランド滞在ブログ in 2023夏

フィンランド滞在ブログ

2023年8月4日から3年ぶりにフィンランドの教育を体感するために現地に来ています。現地で率直に感じたことを徒然なるままに書いていきます。

DAY1「子どもの自由に遊ぶ権利と親の責任のバランス」

「I suggest ...」「You can choose...」
3年半ぶりにフィンランドに戻ってきました!空港はこの3年半で大きく変化して、浦島太郎になった気持ちでヘルシンキ市内へ電車で向かいました!
ヘルシンキ市内では、サーモンスープとベイクドサーモンを食べて「食」からフィンランドを感じながらフィンランドの街を散策しました!
その後、電車で大学時代に学校現場でインターンをしていた時に住んでいた街に電車で戻る時に目の前の席に5歳の女の子とそのお母さんがやってきました!お母さんと女の子は今はイギリスに住んでいるみたいで話は教育の話になりました。
"イギリスとフィンランドの教育の違い"についての話になります。

・授業時間が長いこと
・テストが多いこと、
・テストでは順番がつくこと

が気になっているようでした。住むにはどちらにも良い面がそれぞれあるけど教育はやっぱりフィンランドがいいよねと。お母さんの言葉から、子どもたちにとって大切なのは、周りとの比較の中で成長を感じるのではなく、子どもの個性や自主性を大切できる環境なんだろうなと感じました。そして、大人は一人一人の子どもの成長の過程を信頼して待てることが大切なんだと。
お母さんと5歳の女の子のやり取りを見ながら大人の子どもの悪(ちょっとした悪戯心)との向き合い方から学ぶことがありました。ちょうど「〈子どもとファンタジー〉こどもと悪」をフィンランドで向かう飛行機の中で読んでいたので、そこでの内容とお母さんの子どもとの関わりの間に共通するものを感じました。
電車の中で、子どもが退屈そうな雰囲気が生まれると「次は何をしたい?絵を描くのもいいし、◯◯◯を食べるのもいいし、本を読むのもいいし、粘土をするのもいいし...(色々な選択肢が出てきます。)」
ここでも、子どもが自己決定できる機会をつくること、iPad等の電子機器だけでなく手を動かしながら遊べる教材を選んでいること、何を持って行くのかも大人が決めるのではなく、子どもと一緒に選んでいることも大切にしていました。
その中で子どもが「◯◯◯する」と言って、遊びが始まります。遊びが始まると、子どもの遊びは色々なところに発展していきます。2色の粘土を最初は色ごとで遊んでいたのですが、ついに2色の粘土が混ざろうとする瞬間がやってきます。お母さんは、「おっ、、、」という表情をしつつも見守ります。
虹を描いていて、「黒が欲しい!」という言葉には、「えっ..!!!」という表情をしつつも「あなたの虹には黒い色があるのね!」と言って、黒色のペンを渡すと、女の子は虹を鼻に見立てて、黒色で顔を描き始めました。お母さんは「おお!そうきたか!」という表情でやはり温かく見守ります!
そして、粘土を電車の窓につけようとすると、ここでは明確な線引きを理由とセットで「よくない。」と端的に示します。
子どもの様々な行動を、大人の価値基準で全てをストップするのではなくて、辛抱強く付き合いながら、その子どもの悪(悪戯心)がどう変容するのかを見守る大人の姿勢を感じました。そこから大人の想像を超えた想像力が働いているのも感じました。
また、全てを自由にさせるのではなく、時に大人が明確な線引きを示すことで、安心して自由にトライすることにも繋がっているようにも感じました。
最後に、この本の最後に伝えられているメッセージがフィンランドの先生や親が大切にしていることと重なりそうだなと感じたので紹介します!

"大人がもう少し悪と辛抱強くつき合うことによって、子どもともっと生き生きとして豊かな人生を共に味わうことができるのではなかろうか、ということである。大人が善ということだけを仲介して子どもに接すると、大人→善→子ども、という一方向の動きに終わってしまう。... 悪を拒否しようと思いつつ、それをせざるをえない存在として、大人も子どももその自覚の上に立つことによって、相互の心の交流を感じるだろう。そうしてそのような過程の中で、悪が善に変容することさえ体験することになろう。(p.160-161引用)"

まさに、フィンランドの先生や親が子どもを未熟な存在として上下の関係で見るのではなく、子どもを1人の人間として尊重しつつ、さらに子どもを探究者と見ることで、フラットな関係性を築いていることとも繋がりました。

DAY2フィンランドの休暇の考え方」

"休暇中です。私にとって大切ないくつかの楽しいこと以外はすべて忘れるつもりです"

フィンランドで見つけたポストカード。日本で生活しているとついつい忘れてしまうこと。

フィンランドの先生は夏休みが10週間あってその間はメールをしても返ってくることはありません。先生の中には仕事用の携帯とプライベートの携帯を分けて、夏休み期間は携帯を学校に置いて休むことを大切にしています。
今日も僕の人生に新しい考え方を取り入れてくれたフィンランドの先生と会ってきました。この先生は、若い頃はフルタイムで学校で勤務して、出会った時はパートタイムで先生をしていました。
"先生といえばフルタイムで働く"
日本にある当たり前の価値観です。
もちろん子どもたちと関わる上でフルタイムで働くことの大切さは分かりますが、先生にも人生があって、パートタイムで自分の人生の時間を大切にしながら生きることも選択肢としてあって、そんな先生の生き方も尊重できる社会に魅力を感じたのを思い出しました。
今日から、この先生はケニアに行ってくるみたいです。
色々な世界を見ているからこそ、子どもたちに伝えられることもあるんだろうなと。僕自身、今学校現場で働いているのですが、土日も出勤することが多いです。好きな職場で、教材研究は興味のあることだけど、休暇は仕事のことを忘れて自分の楽しいと思うものだけを心に置いて、生活してみることもトライしてみようかなと新しい気付きになりました!
今日はフィンランドのホストファミリーのお家でサウナに入って、湖に飛び込んで自分が本当に大切にしたいと時間の過ごし方を考えてみようかなと思います!
DAY3「暮らしの中にある良い循環」

 人と自然が共生しながら、良い循環がある感じ。
フィンランドのサマーコテージでフィンランドの校長先生の家族と一緒に暮らすなかで心地よい循環を感じています。
フィンランドで生まれたサウナ。
サウナに入るには、薪が必要になり、薪は森からとってきます。薪は乾燥するのに1年くらいかかるので、使っているのは1年以上前に切った木です。これも少しずついつでも使えるように準備しています。
また、DIYして木で作られた椅子は壊れたら修繕して長く使っていて、限界がきたらサウナ用の薪になります。水は雨水が濾過されてできた水で井戸のようなもので汲み上げたものを使っています。
フィンランドにある自然享受権(Jokamiehen Oikeus)
私有地でなければ自然を尊重しながら、誰もが森を自由に散策して、きのこやベリーを採ったりして自然の恵みをいただくことができます。
本日森を散策しながらベリーを食べました。この"自然を尊重しながら"というものがフィンランドでは自然なカタチで大切にされているのを感じます。必要な分を必要なだけ、自然が循環するように意識しているからこそ毎年ベリーを摘むことができます。多分、知識で教わったというより、子どもの頃に自然の中で暮らしながら体感して学んだ感じがします。
フィンランドは自由な国だけど同時に他者や自然を尊重できるからこそ自由が守られているような感じがします。今日本ではカーボンニュートラルな考え方を浸透させてようとしており、まさにフィンランドの暮らしにはカーボンニュートラルな生活が今でも暮らしの中に残っているのを感じます。
サウナに入るには薪が必要になり、薪は森からとってきます。ここで必要以上に木を切っちゃうと循環は生まれません。自分たちの暮らしを豊かにしてくれる森とサウナと共にある暮らし。二酸化炭素の排出をゼロにする考え方ではなく森から恵みをもらいながらサウナを楽しむ。サウナで二酸化炭素を排出するけど、炭素が自然の中で循環しているのを感じました。今日はフィンランドのスモークサウナを初めて体験してきます。
DAY4「変化に対応する学校現場のリアル」

"変化の激しい時代の中で、子どもたちが幸せな自立を育むための学校現場の変化とは?"
「この10年間は"特に"教育システムの変更が多いから大変...!!!」
そう呟くフィンランドの校長先生。校長先生とフィンランドの教育システムの変化について、話したことを思い出しました。

2014年▶︎現象ベース学習(Phenomenon-based learning)
基礎教育(7~16歳)の間に年に最低1週間行うことが義務付けられている教科横断型のプロジェクト学習)ここでは、単にクロスカリキュラムで授業を行うことが目的ではなく、子どもたちが自分と世界との関係を理解できるよう、実社会で実際に起きている現象を元に学習を進めていくことを目的としています。

2019年▶︎横断的な能力(Transversal competences)
Transversal Competenceとは、知識、スキル、価値観、態度そして意志の全てから構成されているもので、Competenceは知識やスキルを与えられた状況下で、応用することができる能力のこと」です。つまりは、学校で学んだことを、実社会に出たときに活用できる汎用的なスキルを日常の学習過程の中で身につけることを大切にしています。

2021年8月▶︎18歳まで義務教育が延長

フィンランドの教育を始めて見たのは2018年の9月です。あれから5年が経過して3年ぶりに学校現場に入ると、日々教育システムが変化しているのを現場の先生と話していると感じます。また、教育システムだけが変化するのではなく学校現場の先生1人1人にも改革の軸が浸透しているのを感じます。システムを浸透させるポイントがあるみたいでフィンランドでも、これまでに上手くいった教育改革とうまくいかなかった教育改革があり、上手くいかなかった教育改革は国レベルで決めて、改革内容が多く余白がないとき。その一方で上手くいったカリキュラムは現場の裁量を活かすために余白を残しておくこと。
実際にフィンランドでは、10週間の夏休みを経て、新学期が始まる前に2日間の先生向けのワークショップがあります。
1日目は、教育がどのように変化し、学校現場がどのような役割を担うのかを学ぶ時間。
2日目は、1日目で学んだことをどのように各学校現場で実際に活かしていくのかを学校現場ごとに話し合う時間。
現場に裁量が与えられているからこそ、教育システムの変化に対して、現場の先生が変化に適応していくための専門性、スキル、マインドが現場の先生には求められており、また、変化に適応するための時間的な余白も現場の先生には保証されています。
校長先生の「もっとゆっくりできる余白が欲しい」この言葉から現場の先生の変化に適応していくプロセスの大変さが伝わってきました。「正解が何か分からない今の時代」を生きる力を子どもたちに育むためには、子どもたちを取り囲む大人が変化の激しい時代を生きる姿を通して伝えていくことが大切だと現場の先生の姿を見て感じました。

DAY5SNSがもたらすフィンランドにおける課題」

"フィンランドにもある日本と同じような課題"
「今とちょっと前とでは子どもたちを取り巻く 環境が大きく変わった。」と話す校長先生。今子どもたちは当たり前のようにスマホを持っていて、24時間スマホが身近にある生活。
それによって、子どもたちは夜寝るのが遅くなって、学校の授業や本当に自分の将来に向けて取り組むときに集中するのが難しくなってきていることを話していました。身近なことでいうと、YouTube等のSNSを見たり聴くことが多くなることで、アウトプットする機会が減ってきていること。
1人で余暇を楽しめるようになり、友達と関わる機会が減ってきていることを課題として校長先生は捉えていました!この課題に対して「学校として何ができるのか」を校長先生は考えており、2つのプロジェクトを考えていました。

① 友達と関わる協働的な学びを増やすこと
② アウトプット(話すこと)の機会を増やすこと
この2つを重点的に普段の学習活動の中に取り入れていくことを話してくれました。この協働的な学びの価値なついては、コロナ禍にも浮かび上がったようです。フィンランドでは、コロナが広がり3日間でオンラインでの学びに移行することができて学習としてうまくいったことと難しかったことが大きな気付きとしてあったみたいです。
うまくいったこととしては、ヘルシンキ市内のとある学校では、毎日オンラインで課題を与えることで、個別最適の学習が機能し、※同じ課題でも一人一人の興味関心が見え、一人一人をより深く知れたと話していました。
※例えば家にある材料を使って、あるモノを制作する課題等。
その一方で、難しかったことは、協働的な学びだと話していました。どうしてもオンラインでの学びでは、個別最適化の学びに着地してしまい、そこから協働的な気づきや学びに派生しにくい課題を現場の先生は感じていたようです。
「学校の目的とは何か?」「学校とは何のためにあるのか?」
この課題が学校現場に浮かび上がってきたときに、やはり多様なバックグラウンドをもつ友達との関わりからこそ学べること、感じれることがあるという気づきに辿り着き、オンラインからオフラインの学びに切り替えた背景についても聞きました。
フィンランドの小学校の99%以上は公立でありなぜ私立の学校が少ないのかは、多様なバックグラウンドを持つ子どもたちと一緒に学べる機会(インクルーシブな学び)に価値を置いていることも大きな理由の1つです。
今私は私立のオルタナティブの学校で働いているのですが、改めて学校の目的について考えるきっかけになりました。
「学校の目的とは何か?」
今の受験学力を軸とした評価基準では、多様なバックグラウンドへの理解や多様な人と関わるコミュニケーション能力は評価では測りにくい非認知能力ですが、どちらの能力もバランスよく育めるにはどうやって社会の中で価値づけしていくのか。
【そもそも評価されるために学ぶのではなく】人として育む大切な学びがあるような気もしました。フィンランドの学校では、子どもたちが【幸せに生きる方法】を学ぶためにある。
そう話していて、幸せに生きる力が必ずしも社会的に評価されるスキルを育むことではないかもしれないなぁと気付かされました。
DAY5-2「それぞれの国のバックグラウンドを知ることの大切さ」

"あなたの国の教育も素晴らしいよ"
60分くらいフィンランドの校長先生と現場の先生とお互いの国の教育システムと現場のリアルな状況のディスカッションをしました。面白かったのは現場の先生の視点と3人の子どもを育てる親としての両方の視点を聞けたことです。ディスカッションを通してお互いに新たな視点を得られた観点が2つあります。
① 国が行う全国学力・学習状況調査
日本には全国学力・学習状況調査があることを話すとフィンランドの先生から帰ってきた意見は「それはいいね!」という率直な声。私が前見たYouTubeフィンランドの先生が話していたことは、国が学力調査を行い、学校間に順位をつけることは、学校間が競走し、点数を取ることが目的になってしまうことを懸念点として挙げており、国が学力調査を行うことを廃止したことを話していました。
しかし、今回論点になったのは、学校の先生は信頼されて裁量が与えられており、さらに誰かからチェックや管理されることがない側面についても話してくれました。そのため、客観的に目の前の子どもたちの学力が全国的にどの程度ついているのかを知ることが難しく、目の前の子どもたちの現在地を相対的に知れることには価値を感じていました。
というのもフィンランドでは、高校入試はなくとも、大学に入学するための試験はあるので、高校卒業時には全国の学生と競争することなるため、もしかすると小学生と中学生のときに相対的な位置を知ることに価値を感じる一方で、それを行わない国の方針にも深い意味がありそうだなと感じました。(もし、全国学力調査を必須にすることで、教育の目的が点数を取る教育にシフトすることを懸念しているかもしれないとも思いました。敢えて見えなくしているような気もしました。)
② 高い学力を持つ子へのサポートの課題
フィンランドでは、一人一人に合わせた教育が行われているという統計的なデータからその実態についてディスカッションを行いました。フィンランドでは、サポートが必要な子にはその子にあった合理的な配慮が現場に浸透している一方で、学力の高い(学期末の4-10で評価される10の評定の生徒)には、プラスアルファでその子にあった課題が出されないことで、学びが広がったり深まったりしないことに保護者視点では課題意識を感じていました。そして、そのことが近年フィンランドPISAの学力調査が年々下がってきていることに影響を与えているのではないかという意見を話していました。先生の視点では、成績が10の生徒にサポートすることよりも、4-5の生徒にサポートすることの方が優先度が高く、またフィンランドでは日本のように塾のような場所がない分成績がいい子が更に学びを深めたり、広げたりするサポートがもう少しあってもいいのではないかなという意見でした。その例として、夏休みの課題はほとんど出されることはなく、法律で課題を出すことに制限があるのではないかなとも話していました。
色々とディスカッションを重ねた後に、最後は「あなたの国の教育も素晴らしいよ。」と。お互いの国の状況やバックグラウンドをリスペクトしながら対話を重ねてくれたフィンランドの先生の姿勢にもハッとさせられました。自分自身もどこかで、日本の教育の課題にフォーカスして、フィンランドの教育の良い部分だけにフォーカスしてしまう自分にハッとさせられる一言でした。お互いの教育システムや現場の状況の背景にあるものを理解しながら、自分の国に合ったアクションを現場で対話を重ねながら少しずつ合意形成していくことの大切さを感じました。
DAY6フィンランドが男女平等になった背景とは」

「Rouva C.」というドラマを見てきました。 

主人公のミンナ・カントは、フィンランドの小説家、劇作家、ジャーナリスト、社会活動家であり、ユハニ・アホとともに、近代におけるフィンランド写実主義の文学を代表する人物として知られ、代表作に戯曲『労働者の妻』などがあります。著作活動を通して女性解放のために尽力した方である。(Wikipedia引用)

作品の中では、主人公のミンナ・カントの生きる軸(作家として伝えたいこと)のようなものを感じ、この当時フィンランドの社会の中で抑圧されていた女性や労働者階級や貧しい人々を取り囲む社会構造の問題を小説を通じて訴えながら生きる姿が描かれていました。このことが後にフィンランドの女性の参政権の取得や、女性が財産権を持つことに影響を与えたとされています。
また、主人公ミンナカントを生涯を支えた夫のフェルディナンドを演じていたのはお世話になっているフィンランドの校長先生です。この役が私自身の中で本当にしっくりきていました。校長先生の家でホームステイをしているときに校長先生はまさに"平等の考え方"を大切にしていて、夫婦間で子育てを一緒にしている姿がありました。
具体的なエピソードでは、奥さんが育休をとっている時は、校長先生は15時に勤務を終えて、16時に帰宅して奥さんと子育てを交代して、奥さんが趣味のサッカーをする時間を大切にしていました。ここでのポイントは、家事も仕事と同じくらい大切で、大変な仕事であり、夫も子育てや家事をする役割があることを理解していることでした。
校長先生の考え方から私自身学ぶことが多くあり今回のドラマでも主人公の人生を1人の人間として尊重しながら、葛藤しながらも応援する夫の姿と校長先生が大切にしている平等の考え方が重なり、今の考え方があるのは歴史の中でアドボカシー活動をした人がいるからだと感じるドラマでした。
「被抑圧者の教育学(パウロフレイレ)」もう一度読み直しながら、ミンナ・カントの描く小説も読んでみたいと思いました。